銀河英雄伝説で「民主主義」は何回登場するか!?数えてみました。

2020年1月16日

銀河英雄伝説との出会い

大学生時代深夜テレビを見ていると、なんだか展開の早い味気ないなあと思うアニメを偶然見ました。それが私と銀河英雄伝説の出会いです。 戦闘シーンとか、あっけなくてなんだろうなあ、と思って何回見ているうちに興味が湧いてきました。

そこで、小説版を読みつつ、改めてOVA全巻をレンタルビデオして読み・見進めるうちにハマりました。外伝まで全部レンタルして、小説も外伝まで読み終わる頃には、また読み始めたくなるんですよ。

「ユリアンのイゼルローン日記」を読み終わったら、また本編のイゼルローンの戦いを読みたくなりますよね? 完全にエンドレスコースです。

私が購入したのは徳間デュエル文庫でした。もう売ってないのですね。

今は、新作の ノイエのイラストで表紙ができています。

民主主義との出会い

色んな所にハマった銀河英雄伝説ですが、なんといっても、私は民主主義を銀河英雄伝説で学びました。そのため、私の思想はかなりヤンウェンリーに影響を受けています。 右とか左とかないですが、リベラルになってしまいました。ヤンウェンリーのせいで!

そして、信念を語る人は嫌いです。 影響受け過ぎですね。

そういえば、民主主義 という言葉は何回くらい銀河英雄伝説で登場したんでしょうか? ライトスタッフ文庫 全10巻 はKindleということもあり、数えてみようと思います。 表紙絵がないのが残念ですね。

結果は・・・ じゃじゃじゃ~ん

74

74回でした!

各巻ごとの登場回数はブログの最後に記載しています。

ここでは各巻の 民主主義を含む発言を引用しながら、銀河英雄伝説の本編を振り返っていきます。

第1巻 黎明編

第1巻では、なんと1回しか登場しません。民主主義。 その1回を誰が発言しているかわかりますか?

「これ以上、市民に犠牲をしいるのは民主主義の原則にもはずれる。彼らは負担にたえかねているのだ」

「まあ、きれいごとをおっしゃること」

そう、後に非業の死を遂げるレベロ議長です。ジョアン・レベロ  このときはまだ議長じゃないですね。レベロ評議会議員。

対するのは ウィンザー夫人こと、コーネリア・ウィンザー

「まあ、きれいごとをおっしゃること」   私の中のイメージでは 舛添氏の元奥さんの国会議員です。

この一言で、アムリッツァでは、 戦死および行方不明者、 概算 2000 万人 になってしまい、同盟国の命運は決まってしまったと言えるでしょう。ほんと、この議会の場にいたら、力づくでも排除したいです! 民主主義には反しますが。

第2巻 野望篇

ウィンザー夫人のせいにより(もちろん彼女だけのせいではないですが)、窮地におちいった同盟国。第2巻では、クーデーターがおきてしまいます。ドワイト・グリーヒル。アムリッツァ後、左遷されたとはいえ、良識派の彼がなぜ、クーデターを。

他の暴力的なクーデーター企画者に祭り上げられた感は否めませんが、御本人もおっしゃる通り、よくよく考えてのこと。やはり罪は免れません。

「よくよく考えてのことです。提督、考えてもごらんなさい。現在の政治がどれほど腐敗し、社会がどれほどいきづまっているか。民主主義の美名のもとに、衆愚政治が横行し、自浄能力はかけらも見いだせない。ほかにどのような方法で粛正し改革することができるのですか」

ビュコックがやけになりつつ、諌めますが、誰だっけこの発言。「我々が腐敗するはずありません」本文中では、名前は出てこない。ちょっとして、民衆虐殺して、最初から腐っていたことが明らかになりますが。

「なるほど、たしかに現在の体制は腐敗して、いきづまっている。だからこそ武力をもって倒すのだと貴官は言いたいのだろう。では試みに問うが、武力をもった貴官らが腐敗したとき、誰がどうやってそれを粛正するのだ?」ビュコックの語調はするどく、相手はあきらかにたじろいだ。「吾々は腐敗などしません」べつの声が断言した。「吾々には理想があるし、恥も知っています。現在の為政者たちのように、民主主義の美名のもとに私腹をこやし、権力をえるために選挙民に迎合し、資本家と結託し、あげくに帝国打倒の大義をおろそかにするなど、吾々にはできないことです。吾々はただ救国の情熱の命ずるがまま、やむをえず立ったのです。腐敗は私欲から発するもの、吾々が腐敗するはずがありません」「そうかな、救国だの大義だの情熱だのといった美名のもとに、無法な権力奪取を正当化しているように思えるが」

一方、イゼルローンでは、いつものようにワルター・フォン・シェーンコップが、ヤンを煽ります。

やつらに失敗させてから、登場したほうが、権力を握れます!と。 本当にそうしてほしい気もするし、でも、ヤンはそんな選択をするはずもなく・・・

奴らはぼろをだして事態を収拾できなくなる。そこへあなたがのりこんで、掃除人どもをおいはらい、民主主義の回復者として権力をにぎるんです。これこそがベターですよ

無事、クーデター派を掃除した後には、さらにヤンに危険がせまる・・・トリューニヒトと握手だと! 民主主義が選んだ代表者であるトリューニヒト。

ここまで、トリューニヒトはアムリッツァには反対の立場、クーデーター派の魔の手を逃れ、地下でクーデター派と戦っていたそうで、まったく非のつけどころのない行動・・・ 嫌悪感が増す一方です。

政府の主催で、憲法秩序の回復、軍国主義勢力にたいする民主主義の勝利を記念する式典を開くが、そのときトリューニヒト議長と公衆の面前で握手するように、ともとめられたのだ。

「では、ここで、民主主義のため、国家の独立のため、市民の自由のために戦うふたりの闘士、私服代表のトリューニヒト氏と、制服代表のヤン氏とに握手していただきましょう。市民諸君、どうか盛大な拍手を!」

「今日は危なかった」 「トリューニヒトに会ったとき、嫌悪感がますばかりだったが、ふと思ったんだ。こんな男に正当な権力をあたえる民主主義とはなんなのか、こんな男を支持しつづける民衆とはなんなのか、とね」

そして、早くもヤンは地球教徒の怪しさに気づいていますね。千里眼。思考を深く進めると先が見えるのですね。

トリューニヒト氏はあるときは主戦派を煽動し、あるときは民主主義を主張し、その責任をとることはけっしてなく、自己の権力と影響力は着実に増大させ、そして彼が強くなればなるほど、社会は衰弱し、ついには彼に食いつぶされてしまうのだ。そして、そのトリューニヒトをかくまった地球教徒たち……。

第3巻 雌伏編

クーデーターも無事解決して、つかの間の平和が訪れた同盟国。しかしそれを許さない者たちがいる。自分たちでは動かず、相手をそそのかして動かし、果実だけ受け取ろうとするフェザーンである。フェザーンの補佐官ルパート・ケッセルリンクに呼び出された同盟国の弁務官ヘンスロー。クーデーター起きたことを責められつつ、次のクーデーターの可能性はヤン・ウェンリーだとそそのかされる。

小心者のヘンスローは早速本国へ報告。そしてヤン・ウェンリーは本国の査問会に呼び出されることになる。

まことに補佐官のおっしゃるとおりです。しかし、無謀なクーデターのくわだても失敗し、わが国は今日でも自由と民主主義の伝統をまもりつづけています」

そして同盟をはめておいて、アドリアン・ルビンスキー、相手を馬鹿にし続けるフェザーンの親玉。吐き気しか催さない。

「現在の同盟の権力者どもにふさわしいやりかただな。口に民主主義をとなえながら、事実上、法律や規則を無視し、空洞化させてゆく。姑息で、しかも危険なやりかただ。権力者自らが法を尊重しないのだから、社会全体の規範がゆるむ。末期症状だ」

かくして、哀れヤン・ウェンリーは鳥かごに閉じ込められてしまう。

ヤンが同盟軍に属して戦場にたつのは、すくなくとも、慈悲深い皇帝の専制政治より、迂遠さと試行錯誤にみちてはいても、凡人が集まって運営する民主主義のほうがすぐれていると思うからだ。ところが、民主主義の牙城であるはずの惑星ハイネセンにありながら、ヤンは、腐臭をはなつ中世的な権力者の鳥かごに閉じこめられてしまったようなのである。

なんとかしてヤンを助け出したい、フレデリカ・グリーンヒルはビュコック提督とともに奮闘する。つか、奮闘してたかなあ。あがいても成果なし。帝国軍の来襲がヤンウェンリーを解放へ向かわわせる。

しかしまあ、フレデリカのヤンの愛人報道が出たわけだが、間違っていたわけではなかったが・・・

「政府は民主主義のたてまえを公然とふみにじることはできません。いざというとき、武器に使えると思います」

アレクサンドル・ビュコック提督も嘆くばかりである。

「大尉、これが民主主義の総本山の現状だよ。まだ雨がふりはじめてはおらんが、雲の厚さたるやたいへんなものだ。どうも加速度的に悪くなっとる。天候を回復させるのは容易なことじゃないぞ」

トリューニヒト派にコントロールされるジャーナリズムを見て、フレデリカの自信も揺らぐ。このへんも、現代に通じるところがありますね。マスゴミはひどい。たしかにひどい。でもマスコミというかジャーナリズムへの信頼がなくなればなくなるほど、権力者は好き勝手にできてしまう。そして国として死んでいく。

民主主義の体制とジャーナリズムにたいする信頼は根強いものがあったのである。

政治権力とジャーナリズムが結託すれば、民主主義は批判と自浄の能力を欠くようになり、死にいたる病に侵される。この国の事態は、そこまですすんでいるのだろうか。

帝国軍の来襲のおかげで開放されたヤンウェンリー。政府への信頼を自分でもまったくもっていないことを感じつつも、よい独裁国家より、腐った民主主義の方がましだ・・・と言い聞かせ続ける。 ヤンウェンリーの信念である。

何百年かにひとり出現するかどうか、という英雄や偉人の権力を制限する不利益より、凡庸な人間に強大すぎる権力をもたせないないようにする利益のほうがまさる。それが民主主義の原則である。トリューニヒトのような男に神聖不可侵の皇帝になられたりしたら、たいへんなことではないか。

イゼルローンに帰還し、ユリアンの活躍を知るが、つい、メルカッツにユリアンを軍人にしたくないと言ってしまう。

この後、メルカッツはどんどん、ユーモラスになっていく。すてきなじいさん。

一方、痛いところをつかれたヤンは、苦笑いするしか無いのである。メルカッツって本当に発言に重みがありますね。くだらないことを言ったときでも。

「それは民主主義の精神に反しますな」

第4巻 策謀編

悪の魔王に対する勇者の発言のよう。何の悪いところもないはずのトリューニヒトの政見放送。ゴールデンバウムを助け、ラインハルトに宣戦布告的な発言。 このシーンがトリューニヒトの人生絶頂だったのだろう。 ほんと嫌い。

彼の邪悪な野心は、わが国にたいしてもむけられています。全宇宙を専制的に支配し、人類がまもりつづけた自由と民主主義の灯を消してしまおうというのです。

発言を聞いたイゼルローンの面々は憤る。オリビエ・ポプランでも、たまには真面目な発言をしているのである。さらっと、イワン・コーネフによって流されるわけだが。

だいたいなんだっておれたちが、ゴールデンバウム王家をまもるために血を流さねばならんのだ!?ひいじいさんの代からいままで100年以上も戦いつづけてきたのは、ゴールデンバウム王家を打倒して全銀河系に自由と民主主義を回復させるためだったんだろうが

皇帝を受け入れることにどんな意味があるのかを考えることなく同盟国は受け入れてしまう。いや、トリューニヒトはこの時すでにフェザーン(地球教)の策謀の配下にいたわけで、知ってて大手を振って受け入れる。他の政治家たちは何をしてたんだ!といいたい。レベロとか何してたんだ!

皇帝の亡命を認めることが、民主主義の存続と平和の招来にとって有意義であるのか否か、その議論はおきざりにされてしまった。

ユリアンに愚痴っぽく民主主義を説くヤン。虚しさを感じながら。

「専制にたいする立憲制、非寛容な権威主義にたいする開明的な民主主義、まあそういったものを主張し、かつ実践してきたわけだが、ルドルフ的なものがローエングラム公の手で否定され葬られれば、あえて同盟が存続すべき理由もなくなる」

ユリアンはヤンの元から引き離されフェザーンへ向かう。その途中ビュコック爺さんから挨拶と説教w

半世紀以上にわたる民主主義の衰弱と変質の過程を、ビュコックはみずからの歩みと並行してながめてきたのである。それは、理想が、現実という衣をまとった癌細胞によって蚕食され、おとしめられる姿だった。

民主主義の建前・・・

民主主義の制度はまちがっておらん。問題は、制度と、それをささえる精神が乖離していることだ。現在のところ、建前の存在が本音の堕落をようやくふせいでいるが、さて、それもいつまでもつか……

第5巻 風雲編

そして本当に、同盟滅亡の危機を迎える。三流政治家アイランズの目覚め。 ここで目覚めたんやったら、最後トリューニヒトにまけず、突っ張ってくれてもいいのに。三流はやはり上がっても二流までしか行かないんだなと。

それが危機に臨んだ時、彼の内部で死滅していたはずの民主主義政治家としての精神が、利権政治業者の灰のなかから力強くはばたいて立ちあがったのである。そして彼の名は、半世紀の惰眠よりも半年間の覚醒によって後世に記憶されることになる。

いつものように、政治家に不満を覚えつつも、民主主義のために戦おうとするヤン。 平常運転。

ヤンは現在の自由惑星同盟において政治権力を濫用する高官たちに腹だたしい思いをいだいているが、それは同盟の政治体制である民主主義を否定しているからではない。その逆だからこそ、民主主義の精神を堕としめるような権力者たちの愚行に腹がたつのである。

そこで煽りに来るシェーンコップ。 こいつも平常運転。

一人の巨大なヒーローが危機の時代に現れれば、日本でも簡単に独裁を望む人が増えそうです。

いまだに解答できない問題があるのです。つまり、民衆の多数が民主主義でなく独裁をのぞんだとしたら、そのパラドックスをどう整合させるのか、というやつですがね……

そんなシェーンコップに、地質学者ヤン・ウェンリーが 先延ばしの提案。あと100万年弱たてば、民主主義も確固たるものになるのか。それとも。

人類が火を発見してから100万年、近代民主主義が成立してから2000年たらずだ。結論をだすには早すぎると思う

一方、フェザーンで孤軍奮闘のユリアン。 この程度の男ヘンスローを守って必死にフェザーン脱出。 いつだってお気楽マリネスクさん。

同盟政府が外交の重要さにたいしてもっと真摯であれば、このていどの男がフェザーンに送りこまれるはずはなく、いわば衰弱した民主主義のささやかな象徴が彼であった。

ヤンと民主主義と自由惑星同盟が三位一体! そしてそうじゃなくなるわけですね。そのうち・・・

いずれにしても、この当時、ユリアン・ミンツにとって、ヤン・ウェンリーと民主主義と自由惑星同盟とは、まだ不可分な三位一体でありえたのだった。

翻ってヤン・ウェンリーは、二流になった政治家アイランズに最大限のリップサービス。

民主主義の成果をまもるために微力をつくすつもりです」

そして戦場に向かうわけだが、憂鬱一杯ヤン。自分が勝つことで、世界はいい方向に向かうのか? むしろせっかく改善されつつある帝国領の臣民にとっては不幸じゃないかと、敵の民にも気を配る。

彼は国家至上の思考法にはげしい嫌悪と反発をおぼえるが、国父ハイネセンはすなおに敬愛していた。その産物である民主主義体制をまもるということで、どうやら妥協しているのだが、今回、勝利の結果が帝国の民衆におよぼす作用を思うと、心の翼を水分が重く湿らせてしまうのだった。

そんな思いを振り切って必死にヤン艦隊が戦う。まさに勝利を手中にしようとした瞬間・・・本国での会議。事件は地上で起こっているんじゃない、宇宙の現場で起こっているんだ!

必死に抵抗するビュコック提督。しかし、あっけなく地球教徒に守られたトリューニヒトは降伏を選択する。というか最初からそうするつもりだったわけだ。

民主主義を口にとなえながら、それを維持する努力をおこたった。いや、市民すら、政治を一部の政治業者にゆだね、それに参加しようとしなかった。専制政治が倒れるのは君主と重臣の罪だが、民主政治が倒れるのは全市民の責任だ。

同盟の降伏と、ヤン艦隊への実質上の敗北により、自尊心を痛く傷つけられたラインハルト。

でも興味が勝って、ヤンとの会談を実施する。ヤンはラインハルトを傷つけないように最新の注意をはらいながら、会談を実施。

忠誠心は民主主義の上にある・・・素敵な言葉だ。 国に対しての忠誠が必要なんじゃない。民主主義に対してみんなが忠誠を誓えば、同盟も現代の国々ももっと良い方向へ進むのか・・・

「卿の忠誠心は民主主義のうえにのみある、と、そういうことなのだな」

民主主義への忠誠を怠る人が増えると、民主主義から独裁主義に変わってしまうのは簡単なんだと思う。

「それほど民主主義とはよいものかな。銀河連邦の民主共和政は、ルドルフ・フォン・ゴールデンバウムという醜悪な奇形児を生んだではないか」

第6巻 飛翔編

同盟は形式上残り、つかの間の平和。いや、死刑台にたって首に縄をかけられて、片足だけで立っている状態で、同盟は生かされた。 軍を退役したはずなのに、ヤンの周りは、Mrレンネンによって、つねにきな臭い感じで展開していく。

Mrレンネンは、成果を上げるために必死に頑張る。そして生暖かい目で見つめるパウル・フォン・オーベルシュタイン。そして彼を支える?アントン・フェルナー。彼は何も語らない上司オーベルシュタインの思考を読み解いてくれる貴重な存在。

集めてどうする? (レンネンカンプが集めて一挙に処理する・・失敗すれば次の部隊が処理するだけ)

磁石を砂中に埋めて砂鉄を集めるように、ヤンの周囲に同盟の反帝国強硬派・民主主義原理派を集める。集めてどうする?

トリューニヒトへの軽蔑度合いは上がりつつも、ある意味高く評価されるトリューニヒト。

ああ、奴は先だって自由惑星同盟と民主主義を帝国に売りわたした。そして今度は地球教だ。奴が市場に商品をだすつど、歴史がうごく。

彼は同盟の独立と民主主義を帝国に売りわたして、身の安全をえた。自分たちも、幾度となく帝国軍に煮え湯を飲ませたヤン・ウェンリーを売りわたし、身の安全をえるべきだろう。

ヤンにも直接的な危機が迫ります。裁判なしに死刑にしない? どんだけ民主主義を信じているんだ。ヤンの期待はあっけなく裏切られます。

「まさか裁判なしで死刑にもしないだろう。ここは民主主義国家だ。すくなくとも政治家たちはそう言っている」

しかし、政府の思惑に対抗し、政府にとっては余計なことばかりするシェーンコップがそれを許すわけにはいきません。

政府の政略を見抜き・・・いや、これただのシェーンコップの妄想!?的な展開で進んでいきます。

「ところが、民主主義の使徒であるヤン提督は、暴力による政府転覆を拒否した。逆上した過激派はヤン提督を背信者よばわりして、とうとう殺害してしまう。かけつけた政府軍は、ヤン提督の救出には成功しなかったものの、過激派は撃滅した。ヤン提督は祖国の民主主義をまもる貴重な人柱となった……どうだ、なかなか苦労をしのばせるシナリオじゃないか」

そして、レベロ議長から、ヤンの墓標が読み上げられます。危うし!ヤン・ウェンリー。

「きみは若くして名声と地位をえた。強大な敵と戦って一度も敗北せず、たびたび国家の危機を救い、民主主義の死滅を回避しつづけてきた。当代と後世の人々は、きみにおしみなく敬意をはらうだろう」

それに輪をかけるのがロックウェル統合作戦本部長。民主主義が重要なんじゃない、国家をマモルことだ! 愛国心の塊ですね。すばらしい。 民主主義が滅んでも、自分の既得権益が残る国家さえ残れば、彼はよいわけです。まさに愛国者の鏡と言えるでしょう。

重要なのは民主主義をまもることではない。民主国家をまもることだというのに。

そんな、レベロやロックウェルの思いを軽々、いや、危うく乗り越えたヤンは、再び宇宙に旅立ちます。

彼らに累のおよばないことを、同盟政府の、また民主主義の矜恃にかけてお約束いただければ、私はハイネセンを退去します。

第7巻 怒涛編

これは過去の回想シーンですね。トリューニヒト氏が、が四人の少年少女と肩をくんで、「 おお、我ら自由の民」と同盟国歌を合唱 するわけです。聖なる戦士。トリューニヒトのお得意のシーンですね。

参列者全員が、民主主義と自由をまもって帝国と戦う聖なる戦士だった。

新たなる戦闘の前に、ホアン・ルイの回想ですね。 彼なりに民主主義のために戦ってきた。そして友人のレベロも説得した。でもかれは成果が出せずじまい。 そっと民主主義の滅亡を見守るしか無いわけです。

自由惑星同盟の破滅は、もはや回避しうるところではない。どうせ破滅するものであれば、ヤン・ウェンリーを逮捕せよとのレンネンカンプ弁務官の要求を拒否し、民主主義国家の存立する意義をあきらかにするべきであった。

ヤン・ウェンリーが戦う前に、ビュコック提督とチェン・ウー・チェンが、ラインハルト戦います。勝ち目のない戦いを。そして、既定路線通り、戦死します。次なる後継者に思いを馳せたのか、先に逝くよというだけだったのか。

民主主義に乾杯。一番泣けるシーンです。 キルヒアイスやヤンが死んでしまうシーンはショックが大きすぎて涙も出ません。ただ脱力するばかり。 ビュコック爺さんの死は本当に泣けます。

「なぜなら、えらそうに言わせてもらえば、民主主義とは対等の友人をつくる思想であって、主従をつくる思想ではないからだ」

「……民主主義に乾杯!」

そしてそのビュコックの死を見つめつつ、「他人に何がわかる…」と独語するラインハルトにもまた泣けてしまうのです。せつなすぎる、マル・アデッタの戦いでした。

「他人に何がわかる…」

そんな悲観的な境遇にイレギュラーズは、より陽気になっていきます。ダスティ・アッテンボローとポプランの、ストーリー的にはどうでもいいやり取りが繰り広げられます。その陽気さが魅力なわけです。

「帝国軍の皇帝ばんざいに対抗する歓呼というと、民主主義ばんざいしかないように思うのだが、どうだろう」

一方、また、ヤンは何故か無駄に上司を雇います。上司を雇うという表現も変ですが、軍人の自分は決してトップに立ってはいけないという、ヤンの信念ですね。  人はいいが無能なロムスキー医師が代表になります。清々しく滅ぶために必要な代表だったのでしょう。 きよきよしく滅ぶ。(W杯以後日本語が変わりました)

「皇帝の専制権力と妥協するのですか。民主主義の闘将たるヤン元帥のお言葉とも思えませんな」

ヤンは自分で迎えたにもかかわらず、無駄な説教を繰り広げます。 軍人が医師に民主主義を説くというどうでもいいシーンです。

「多様な政治的価値観の共存こそが、民主主義の精髄ですよ。そうではありませんか?」軍人が政治家に民主主義について講釈するばかばかしさに、ヤンは内心、ため息をつきたくなる。

そして、説教しながらもヤンは不満を禁じ得ない。まあ、これも平常運転と言うやつですね。

民主主義とは政治という名の高級ホテルの賓客になることではない。まず自力で丸太小屋を建て、自分で火をおこすことからはじめなくてはならないのに。

そして目の前の戦いに集中せず、ヤンの思考は拡散する。フェザーンの残党、地球教はどうなる・・・

フェザーンと地球教のあいだに尋常ならざる関係があるとすれば、かるがるしく彼らと手をくむことは、投機と狂信の醜悪な連合体が民主主義の内実をくいつくす結果を招来するかもしれない。

そして、民主主義を救うべきかまで思考は広がっていく。

確かに、何も進まない民主主義にイライラする。もっと強いリーダーシップを取っていい政策を決めて推進してくれよ!と思う。でもその思いが強すぎると、独裁になってしまう。権力者に権限を与えすぎると、ろくなことにならないのは、歴史の常であったりするわけです。

悪しき反動であるがゆえに脅威なのではなく、民主主義体制とことなる体制によって時代の変革に成功しつつあるのが脅威なのだ。まったく、専制とは、変革をすすめるにあたって効率的きわまりない体制なのである。民主主義の迂遠さにあきれた民衆は、いつも言うではないか。「偉大な政治家に強大な権限をあたえて改革を推進させろ!」と。逆説的だが民衆はいつだって専制者をもとめていたのではないか。そしていま、最良の部類に属する専制者をえようとしているのではないか。見あげるにたる、崇拝するにたる半神的存在を――ラインハルト・フォン・ローエングラムを。

悪い思考を振り払いつつ、民主主義の本流をヤンは思い出す。

民主主義など、よりまばゆい黄金の偶像にくらべれば、色あせた青銅の偶像でしかないのではないか……。いや、ちがう。ヤンはあわてて首をふった。おさまりの悪い黒い髪がゆれた。「ユリアン、吾々は軍人だ。そして民主共和政体とは、しばしば銃口から生まれる。軍事力は民主政治を産みおとしながら、その功績を誇ることは許されない。それは不公正なことではない。

力を持ったものの自制。そうだ、権力者は常に謙虚じゃないといけない。卑屈でもだめで、強欲でももちろんだめで。謙虚で力を発揮できる政治家が欲しい。今の日本でも。

なぜなら民主主義とは力をもった者の自制にこそ真髄があるからだ。強者の自制を法律と機構によって制度化したのが民主主義なのだ。そして軍隊が自制しなければ、誰にも自制の必要などない」ヤンの黒い瞳がしだいに熱を発した。ユリアンにだけは理解してほしかったのだ。「自分たち自身を基本的には否定する政治体制のために戦う。その矛盾した構造を、民主主義の軍隊は受容しなくてはならない。軍隊が政府に要求してよいのは、せいぜい年金と有給休暇をよこせ、というくらいさ。つまり労働者としての権利。それ以上はけっして許されない」

ヤンはラインハルトが好きだ。大好きだからこそ、彼に力を与えてはいけないのだと思う。

巨大な才能にとっては、民主主義より専制政治のほうが自由な活動が可能であるとは。ラインハルトとヤンの境遇がもし逆転していたら、あるいはラインハルトは民主政治にとって有害な野心家、あのルドルフ大帝の悪しき再現となったかもしれないではないか。ヤンのほうこそが黄金の冠をいただくことになったかもしれないではないか。

騎士って言葉はヤンには似合わないけど、そんな心情。

民主主義の騎士的な決意をかためながらも、ついヤンは自分と敵手との立場を相対化してしまうのである。一方には平和と統一へのの道があり、他方には民主政治の王道をめざすはるかな路がある。

第8巻 乱離編

一度、民主主義が滅ぶと当面、復活しない。旧社会主義国を見ての通り。なので少しでも残さないと行けないに民主主義。もう同盟国は滅んだも同然ですからね。

それは、民主主義の基本理念と、制度と、それを運用する方法とにかんして、知識を後世に伝えなくてはならないからだ。たとえどれほどささやかであっても、そのための拠点が必要なのだ。

政治にしてもも、歴史にしても永遠はない。。。たかだか数百年の平和を求めて英雄は戦うわけだ。

専制主義に死を!民主主義よ、永遠なれ〟という壮大な叫びではない。ヤンは政治体制の永遠を信じてはいなかった。

ヤンの願いとは逆に、ユリアンはヤンへの個人崇拝を高めていく。 そしてユリアンもその事に気づいているから、なんとかしてヤンではなく、民主主義崇拝にしないといけないと思うわけである。 ただ、それはヤンの死後である。

ヤン個人への忠誠心によってユリアンが敵を憎悪し戦いを好むようではこまる。あくまでも民主主義の思想と制度にたいする忠誠であってほしい。

そして、最期まで、ヤンはヤンである。民主主義の手続きを重んじた結果、敵(地球教)に接鑑を許す。自分で自分の死にサインしてしまったわけである。

政府代表のロムスキーと先行して、皇帝ラインハルトとの会見をうけたことは、ヤンにとっていくぶんかの引け目になっていた。民主主義体制の手つづきを、一時的ながら失念していたという思いがあるので、万事にロムスキーの権威なり面子なりを優先させてやろう、と、ヤンは考えていたのである。

そして、ヤンは死ぬ。やはり、ヤンも永遠ではなかった。

フレデリカも当然だが、民主主義ではなくヤンを愛していた。だから民主主義は滅んでもいいから、ヤンに生きてほしかった。多分、全ての人間はそう思うだろう。国家が滅んでも、民主主義が滅んでも、自分の愛する人には生きていてほしいと。生きていてほしかった。

りっぱですって?わたしは、りっぱなんかじゃないわ。真実を言うとね、わたしは民主主義なんか滅びてもいいの。全宇宙が原子に還元したってかまわない。あの人が、わたしの傍で半分眠りながら本を読んでいてくれたら……

そして、死んだことで、ヤン・ウェンリーは民主主義の人格にされてしまう。彼にとっては、本当に不本意だろう。そして、不本意であることを知っている仲間や家族たちが人格化してしまうわけである。仕方ない。でも切ない。個人と民主主義の関係。

共和政治の理念は、民主主義擁護の英雄たるヤン・ウェンリー”の理念として、はじめて専制政治の激流に拮抗し、存在をつづけることができたのである。

生前のヤン・ウェンリーが痛切に希求して、ついにえることがかなわなかった民主主義の人格化としての個人を、ヤンの後継者たちは見つけることができた。それはつまり、”死せるヤン・ウェンリー”であったのだ。

ヤンが死んだことで、ラインハルトの生きる力も尽きてしまったのかもしれない。

第9巻 回天編

ヤンの死はいろんな人に影響を与える。 陽気なポプランもその1人である。彼はヤン以外に命令されたくなかったのである。

俺には自分に命令を与える相手を、自分で選ぶ権利があるはずだ。それが民主主義ってものじゃないか、ええ?

残った人たちは、最後の砦。残った人たちは生きないといけない。

いつのまにか民主主義の最後の砦になってしまったのも。皆がいつまでもそこにいのこって、祭りの夢を追いつづけているのも。ご自分の責任を自覚なさったら、さっさと生きかえっていらっしゃい」

そして、ヤンの最も嫌う偶像化がされ、万歳三唱されてしまう。\(^o^)/

不本意なことはフレデリカを筆頭にみんなしっている。死んだのだから仕方ない。悔しかったら、生き返ってご覧なさい!

「ヤン提督ばんざい!民主主義ばんざい!自由よ、永遠なれ!」
「ヤン提督ばんざい!民主主義ばんざい!圧政者を倒せ!」

そんな青い民主主義が生き残りをかけて戦っている中、黒い民主主義もどきは、鳴動をつづける。トリューニヒトである。

見るがいい、公僕などという輩は、権力者の処罰をおそれはしても、民主主義の主人たる市民に献身などすることはないのだ・・・

トリューニヒトにたいする憎悪と嫌悪がいかに深刻だからといって、その身命を、政略上の取引の材料にというのでは、トリューニヒトの、民主主義にたいするかずかずの背信行為を非難する資格はないではないか。

そして、クーデーターなのか、下剋上なのか、無駄な戦いを起こしてしまったロイエンタールがトリューニヒトを掃除する。本当に醜いシーン。

卿の信奉していた民主主義とやらは、このような悲喜劇とは無縁なのかな

民主主義もたいしたことはありませんぞ。私をごらんくださることですな、元帥、私のような人間が権力をにぎって、他人にたいする生殺与奪をほしいままにする。これが民主共和政治の欠陥でなくてなんだというのですか」 トリューニヒトの舌が回転速度をあげはじめた。自己陶酔の臭気がコロンの香を圧してたちのぼりはじめる。

「奇妙だな、卿は民主主義を憎んでいるように聞こえる。卿は権力を欲して、それを獲得するのに、民主主義の制度を最大限に利用したのだろう。民主主義こそ卿の恩人ではないか。悪しざまに言うこともあるまい」

「専制主義が私に力をあたえてくれるなら、今度は専制主義が私の恩人になるでしょうな。私は民主主義を賛美する以上の真摯さをもって専制主義を信奉しますとも」 「すると卿は、ローエングラム王朝においても宰相となって権力を掌握するつもりか」 「皇帝さえそうお望みなら」 「そして自由惑星同盟を枯死させたように、ローエングラム王朝も枯死させるというわけか」こいつは怪物だ、と、ロイエンタールは苦痛の脈動のなかで思った。 軍務尚書オーベルシュタインとは異種の怪物、エゴイズムの怪物だ。この男が民主主義を喰いつぶしたのは、偶然、その陣営に属していたからにすぎない。

ロイエンタールも死んでいくしか無い。単なるゴミ掃除で死ぬトリューニヒト。

第10巻 落日編

ついにきました。最終巻。民主主義の同盟はもう形もない。10巻の中心は地球教だった。

狂信者集団のなかで民主主義原理にもとづく主張がなされるとは、ド・ヴィリエにとっては笑止であった。

多数決が原則の民主主義であるが、生命の危機の少数の人を見捨てることはできない。

民主主義の基本的な精神からいえば、生命を脅かされている人々を、少数だからという理由で見すてることはできない。

民主主義のいいところがほぼなくなったところで、個人的ないいところがでてくる。

下の階級の女性兵士が、上級士官に命令できる。それが、素敵な民主主義。

民主主義ってすてきね」

ラインハルトは最期まで民主主義がいいものだとは思っていないと思う。自分が死に行く中、そういう思想があってもいいかというレベルだろう。さらに、自分の決断はしない。どうせ、死ぬから、あとはヒルダと相談しなよ!と未来志向で息絶えていく。

ラインハルトは冗談めかしたが、無制限あるいは無原則に民主主義の存続を認める意思はないということが明白であった。

そんなもやもやの中、地球今日のおかげで、帝国とイゼルローン共和国は手を結ぶことができる。 明らかなる悪意があれば、手を結べる。やはり、国の運営には敵が必要なのか・・・

地球教徒にたいする共通の憎悪によって、銀河帝国と民主主義が共存の道を見いだすことができたのだ

そして、ラインハルトは死ぬ。ラインハルトが死ぬと、共和国のキャッチコピーは力を失う。敵が強大なればこそ、敵を非難するキャッチフレーズは力を持つが、敵が弱まると、その力さえ弱まってしまう。

「くたばりなさい、皇帝!」と叫んだものだ。それはラインハルトの生命力が輝いていたからこそ、民主主義擁護の叫びとして有効だったのである。だが、その言葉も、永遠に、役割を終えたのだ。ふと、思いついたようにカリンがユリアンの横顔を見やった。「ね、ユリアン、とにかくバーラト星系は民主主義の手に残るのね」

カイザーは死に、少しだけの民主主義が残る。世の中の九十数%は帝国だ。形だけのわずかな民主主義国家。戦争になればすぐにでも滅んでしまう。でも、それでも、すこしだけでも民主主義の領域は残る。長い冬の時代に突入する。この先、何年後に民主主義が大きな力を持てるのかわからない。それでも、たった少しでもそんな力は残る。

冬は長く、しかも春の到来は必然のものではない。

それでもユリアンや彼の仲間たちは、民主主義をえらんだ

せつない。ことあと、ユリアンがどう行動するのか。外伝では描かれない。こんなに弱小共和国では、望みは、帝国が弱小化するだけ。ヒルダがいる限りは当面、帝国は弱小化しない。しかし、若いヒルダもやがて死ぬ。そうすると、そのうち、ゴールデンバウムのようになる可能性はある。その時に、民衆の力で共和国の力は発揮できるのか。しかしアムリッツァの戦いを振り返ると、臣民たちは食えればどの国の支配でもいいと思ってしまう。逆に、ローエングラム王朝が初期に良い政治をすればするほど、そのあとの後継者がひどい政治をすれば、逆に帝国への忠誠心はなくなってしまう、難しいところである。

やはり、日本も民主主義になって・・・何年だっけ?

日本では1928年に普通選挙が実施された。しかし、そのあとの太平洋戦争で、民主主義は失われた。戦後、1952年に、平和条約が発効されたことを思うと、2018年の今ですら、66年しかたっていない。

地質学者ヤン・ウェンリーからすると、まだ時間はたっていない。このあと歴史はどうなるのか。。。時間が必要なんだろう。

各巻ごとの民主主義の登場回数

ということで、各巻ごとの「民主主義」の登場回数をカウントしてみました。最初の頃は少ないですね。やはり同盟の危機になるほど、民主主義の本質が問われるシーンが増えてきていると思います。

民主主義のシーンを振り返っただけで、銀河英雄伝説のさまざまなシーンが頭の中で巡り巡ってしまいます。こういう一つの切り口で着目して読み返すっていうのもありですね。

  • 第1巻 黎明編  1 件
  • 第2巻 野望篇  2 件
  • 第3巻 雌伏編 10  件
  • 第4巻 策謀編  6 件
  • 第5巻 風雲編 12  件
  • 第6巻 飛翔編  9  件
  • 第7巻 怒涛編 14  件
  • 第8巻 乱離編  7  件
  • 第9巻 回天編 13  件
  • 第10巻 落日編  8  件

銀河の歴史がまた1ページ

……伝説が終わり、  歴史が始まる

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